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伊豆八十八ヶ所霊場⑥

第42番 長楽寺

以前は薬師院長楽寺と名で別の地にあったものを、1555(弘治元)年に僧尊宥が現在地に移しました。 その後明治初年の廃仏毀釈によって一旦は廃寺となりましたが、宝光院長命寺と併合し再興しました。宝光院長命寺の本尊であった聖観世音菩薩が伊豆横道三十三観音の第23番霊場となっています。 また1854(安政元)年12月21日に日露和親条約が調印、翌1855年には日米和親条約の批准書が交換された寺院です。

第43番 大安寺

初めは小田原にあった寺院です。 天正年間(1573~1591年)に再興され、近世初頭に現在地に移りました。日向佐土原藩の船が、将軍家に献上するための御用材を積んで江戸に向かう途中で暴風雨に遭い、やむを得ず積荷の一部を捨てて下田港に入港しましたが、御用材を捨てた責任をとり16人が自害しました。 帰葬が許されなかったため、故郷の菩提寺と同名の大安寺に葬られることとなりました。 船に残されていた材木は、大安寺の本堂の柱として残っています。

第44番 廣台寺

かつては桂昌庵という真言宗の小さな庵でした。 1612(慶長17)年4月21日に現在地に移り、曹洞宗に改宗、名も湯谷山廣台寺と改めました。1854(安政元)年に近隣が大津波に襲われた際、下田に滞在していたロシアのプチャーチン提督と幕府の勘定奉行川路聖謨が避難していました。 伊豆横道三十三観音の第十九番札所でもあります。

第45番 向陽院

1402(応永9)年に天台宗の阿闍梨が諸国行脚で河内を訪れ、地蔵密庵と号した草庵を結び、虚空蔵菩薩と地蔵菩薩を奉ったことが草創です。

第46番 米山寺

733(天平5)年にこの地を訪れた行基が「寺を建てるのに良い所である」と言ったことから、人々がその意に従い、程なくして寺が建てられたと伝えられています。 本尊の薬師如来も行基の作で、同年10月20日に入仏点眼し安置されたといいます。

第47番 龍門院

1099(康和元)年6月24日、保月嶽頂上の老松に光を放つ仏像が発見され、龍が降臨すると言われていたこの地に庵を建てて安置することとなりました。 後に行脚の僧が「この像は青面金剛明王である」と言い、奉るようになりました。 当時は真言宗の寺院でしたが次第に衰退し、1593(文禄2)年に太梅寺四世法山宗禅が復興して曹洞宗に改めました。

第48番 報本寺

1323(元享3)年に富貴野山宝蔵院(第81番札所)に向かっていた真言宗成就院の阿闍梨が、風岩峠付近でこの地が霊地であると感じ、1326(嘉暦元)年3月に婆娑羅山神護寺として開堂しました。 しばらく無住の時期がありましたが、臨済宗として再興しました。

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